指原さんとサイゼで食事をしながら「貯金って大事だよね」という話をした。
その日は平日だった為かそれほど混んでおらず、広めのテーブルに通してもらえたので2人で遠慮せずバンバン注文しドリンクバーまで付けた。
それでも会計はギリ2000円代に収まった。
「私家計簿つけようと思ってて〜」
家計簿か───────
去年の1月、俺は家計簿を付けることを目標に2024年のスタートを切った。結果はどうだったか。
次月には家計簿ごと紛失しその習慣はいよいよ定着することは無かった。
もしかすると紛失などしていないのかもしれない。物欲を抑え込む力が反発し、自らの記憶を「紛失した」と改ざん、または目の前の家計簿を脳が知覚するのを拒み見えなくしてしまったのか、そのどちらかだろう。
そもそも部屋から持ち運ぶものでも無い。本棚に積み上がった小説に紛れたか、捨ててしまったのだろう。
サイゼリヤの帰りに指原さんが家計簿を見に行ったので、同じ文具店に立寄る。
昔から文具店は好きだ。あまりこだわりなど無いはずなのに、機能やデザインの違いを不必要に比べてまわり、長居してしまう。最新の文具はどれもユニークで、絶対に要らないものでも手にとってみると欲しくなってしまう。
小学生〜中学生の時に通っていた塾の隣に5階建てくらいの大型文具店があり、無駄にデッサン用の道具やイラストの陰影を付けるためのティッシュ素材のペン等を眺めて無意味に買ったりしていた。持ち帰ってからは、買ってしまった手前、購入を後悔しないよう碌に使い方も調べず試し描きを繰り返して使い倒したものだ。文房具屋は絶対に要らないものでも「お、いいな」と思ったが最後、なぜか買って帰ってしまう特別な魔力を孕んでいる。
そんなこんなで今の俺に絶対に要らないもの、つまり家計簿2号を指原さんと買った。
◇
2025年の5月からという中途半端なタイミングではあるが、これは去年の自分を超えるための挑戦だ。気合いを入れよう。今回は1人の力では無いため継続させられるかもしれない。
例えば一緒の日から付け始めた人がいるならば
「そういえば家計簿ちゃんとつけてる?」のひと言でモチベーションを建て直すことが出来るだろう。
目標はとりあえず半年続けることだ。
ところで俺の購入した家計簿だが、何の手違いか、デザインで選んだために中身が“3年ダイアリー”なるもので、1冊3,060円もした。レジへ持って行ってから金額を聞き、店員に対し渾身の絶叫を放ちそうになってしまった。隣のレジで会計していた指原さんにもその値段が聞こえていたらしく、仰天した様子でこちらを見つめていた。都度値段を確認する癖をつけるべきだ。
帰宅後、家計簿生活1日目の欄に【本書: ¥3,060】とデカデカと書き込んだ。
◇
次の日は休日だった。この日は待ちに待った小説の発売日であり、秋葉原にある書泉ブックタワーという大型書店に行く用事があった。
それ以外には何も予定が無いが、とりあえずは節約を心がけ寄り道などしないようにする。
家計簿をつけることの意味として、俺が思うにその“面倒くささ”があると思う。
例えば今まで気にしなかったような出費────駄菓子やジュースなどだ────を「これを今買ったら、後でわざわざ家計簿に記入しなければならない」という思考がブレーキとなり無駄遣いを抑える役割を果たすのだ。
なのでその都度予算を計算して出費を抑えるといった高等技術を身に付けておらずとも、まずはただ付けることに意味があるという考えだ。それすらも守れなかった訳だが。
書店に着いた。
2階に通常版とあわせて著者のサイン付きの本がずらりと並んでいる。この日を待っていたのだ。値段は変わらないようなので、もちろんサイン付きの本を手に取る。発売日という事で、その付近には著者の別作品もまとめて陳列されていた。現在発表している長篇作品は主に13冊だが、俺がこれまでに読んだのは8冊でそのどれもが傑作であった。今回のも期待であるが、まだ読んでいない作品もこの機会一緒に買おうと、今回は2冊まとめて購入した。どちらも小説サイズでは無い単行本サイズなので結構重い。
俺は手に取った2冊を抱えレジへと向かう。
───────さてここで。
昨日から家計簿付け始めたのだ、自分の生活スタイルを見直すことにしてみる。主な出費は何か。旅行費?全く行かない。食費?外食はそこまで多くない。交際費?人とあまり外では会わない。
では───────
2冊で合計7,760円であった。
俺の主な出費、それは本だ。
レジでの合計金額に一瞬躊躇ったが、不思議とすぐに受け入れた。
本以外のもの、それこそ家計簿が3,000円したことにはブチギレそうになったが、倍以上の値段でも今回は平気だった。
本は1度の出費で長く楽しめる娯楽だ。この1冊でどれだけの時間を過ごせるか。そう考えればこの程度の出費は痛くは無いのである。度々課金を繰り返す現代の娯楽とは大違いだ。
(毎月ツイステッドワンダーランドに定期課金をしているが)
思い返してみれば今月の頭にもこの店で本を3冊ほど購入した。その時の合計金額も6,500円ほどだったし、ちょっと焦った方がいいのかもしれない。
◇
いや、待てよ。それだけではなかった。今月といえば無駄な出費をしまくっていたでは無いか。
これである。

俺は小学生の頃からビックリマンシールを集めており、今年はそのシリーズ40周年記念としていわゆるレアキャラのみがラインナップされた記念商品が発売されているのだ。
ビックリマンシールといえば当時から集めている人はもちろん、そもそもが40周年と息の長いコンテンツのため俺のような新規層も多く、あちこちで売れてしまって入手が困難な状態にあった。
しかも今回、ランダムで封入されているシールの数は85種類。完全コンプリートは無理でも、好きなキャラクターのシールは是非手に入れたいと思い、見つけ次第買いまくっていた。
職場の先輩も見つけたら買ってくれており、色々な人の協力あって結局今では85種類のうち60種類は集め終えてしまった。

冷凍庫には余ったウエハースがジップロックにて冷凍されており、当分、糖分には困らない生活を送れることだろう。

◇
この忙しい現代社会、何をして遊ぶにも金がかかる。娯楽で溢れかえる世の中には様々な誘惑があるだろう。テレビを付ければ話題のスイーツやアミューズメントパークの特集、SNSでバズった飲食店や人気グッズなどの誘惑。
俺はそんな情報が飛び交うものから離れ、静かにひとりで読書をする事が1番節約に繋がると思っている。ちょっと最近は本が高くて困っちまうが。
節約をテーマに、読書以外で他にも何か時間をうまく使える娯楽は無いかと考えているそんな時、断捨離中の弟から大型のイーゼルを引き取った。
アイドルのサイン付き大型ポスターを飾っていたものらしく、なかなかのサイズだが「ほんとうに邪魔なので貰ってくれ」とイーゼルだけ頂いた。

大きなイーゼルが手に入ったことだし、それなりのサイズの絵なんかを描いてみるのも良いのではないか。
油絵具のセットは簡単なものではあるが持っているので、早速ちょい大きめのサイズ、530mm×455mmのF10号のキャンバス(¥1,640)を購入し、次の休日に挑戦してみることに。
◇
届いた。大きい。

しかし一体何を描けば良いのだろうか。
俺は芸術家でもないし構想も何も考えていない。そもそも正しい筆の扱い方も知らない。
迷った挙句、とりあえず“この世で最も美しい女性”を描いてみることにした。

もちろん、「富江」である。
しかし、以前小さいキャンバスに描いたものをそのまま拡大コピーできるはずもなく、かといって大きいキャンバスに女性の顔を美しく下描きできる程の技術もないためとりあえず「左目」だけを描いて勘で進めてみることに。

鉛筆で左目と眉毛を描き、その上から試しに薄く茶色でなぞってみた。
しかしオイルの量を間違えたようでシャバシャバになってしまい、まっ茶色になってしまった。勘で描いているので難しい。
キッチンペーパーで拭くとある程度色を薄めることが出来たので、これを消しゴム代わりにしよう。
その後何となくそのシャバシャバの筆で顔全体のバランスを形どってみた。

意外と下描きなしでも形はできそうだ。
とりあえず全体の輪郭を把握するためにも、下描きのある左目だけはっきりと形を付けてみる。

キャンバスが大きいから細い筆で描き込めるのが嬉しい。そして時間があっという間に過ぎる。
目を描いているだけでも、美しい女の顔が出来上がっていく悦びを感じ、自分がまるでメイクをしているような感覚に陥る。新鮮だ。

近づいて描いている時は気が付かないが、距離をとって全体の写真を撮ると顔のパーツの違和感に気付く。鼻がおかしい。

微調整を繰り返していく。手探りで進めてゆく、この工程が楽しい。
次は口だ。とても苦戦した。



パーツの微調整を繰り返し、とりあえずこのように落ち着いた。

近づいたり、引きで見たりを繰り返すうちにゲシュタルト崩壊寸前状態になってしまい、終始ほぼ錯乱状態で筆を動かすことに。
もう何が美しいのか分からなくなってきている。一旦寝よう。
◇
ところでこの絵の左側、つまり富江の右反面は諦めた。
単純に下描きのない状態で綺麗な右目を描く自信がない。
そこであえて顔の右反面は描き込まずに淡いタッチのままにして、富江のもつ禍々しさをイメージして誤魔化そうという作戦で行く事に。知らない人のために補足すると「富江」はホラー作品である。
右半分はテキトーに色を混ぜてキッチンペーパーで擦ってみる。これも思いっきり勘だ。今更何しても絵全体が崩壊することもないだろう。




今日の分は一旦切り上げる。何事もコツコツと時間をかけるのが無駄のない娯楽の楽しみ方だ。

◇

それから俺は寝る前に毎日富江と向き合い、その美しい顔に手を加えていった。

今日は髪に青を混ぜてみようか、フフフ……



美しい……!美しいぞ富江……!
とびきりの美貌と、幽霊のような恐ろしさを併せ持っている。
それとも筆をとっている自分が富江の魔力に取り憑かれているだけなのだろうか。
外野には下手糞な記号の戯画に見えているのかもしれない。
◇
今日は目の中を描きこんでみようと思った。
富江の作品にある目の色を見て、まずは青で描いてみた。……が

……違う
思い切りキッチンペーパーで目の中を擦る。
富江の瞳はこんなものではない!!!

ペーパーで擦った瞳は暗く濁り、酷く不細工な色合いになってしまった。頭を抱える。
俺は、とんでもないことをしてしまったのでは無いか。
物は試しだ。手元にある筆を洗う用の油をキッチンペーパーに染み込ませ、目の中を慎重に擦ってみる。……と

───────よかった、綺麗に落ちた。
時計を見ると深夜3時だった。
伊藤潤二の『画家』という話を思いだす。
突如目の前に現れた富江の美しさを作品にしようとする画家がどんどん狂っていく、そんな話だった。
最終的にはおそろしい絵が完成し、富江は……。

久しぶりに読み返した。やはりおもしろい。
少し時間を空けて絵を見てみる。少し怖いのでとりあえず瞳はいじらずそのままにしておく。
デジタルイラストとは違い、繰り出す一手が作品全体の崩壊を導くこともあるようだ。少し落ち着いて筆を入れていきたい。
◇
すっかり毎晩、富江の前に腰掛け手を加えることが習慣になってしまった。家計簿の習慣もこのように定着してくれればいいのだが。
しかし読書と油絵、このふたつがあれば余計な出費を抑えて部屋の中で過ごすことが出来るのではないか。結果的に家計簿を使うタイミングは減るだろうが、わざわざ習慣化せずともはじめから出費がないのならそれに越したことはない。
当分は休日でも外出をせずに、ビックリマンのウエハースと絵画で穏やかに過ごして節約に努めようと思う。
実際にここ数日はずっと家で絵を描いてるため無駄な出費はしていない。毎日絵を描く習慣が外出を抑えて結果的に節約になっているのだ。
今日は富江に違う色を足して見ようと思う。ここまでの俺はずっと薄い色使いで下描きをして遊んでいるだけなのだ。
筆の扱いに慣れたら右目も描けるかもしれない。
───────おや?

オイルがなくなってしまった。これでは描けない。
やはりどう頑張っても部屋から出ることになるし、娯楽を嗜む以上ある程度の出費は免れないらしい。
久しぶりに家計簿を出して出費に備える。
早速紛失していないといいが……。
と、ここで紛失していたはずの家計簿1号が急に見つかった。

どうやら机の上に積みあがっている雑誌の下敷きになっていたようだ。少し前に先輩と行った神保町で買った美術雑誌たちだ。
家計簿1号……今更見つかったって何の役にも立たない。全くの無駄である。
よく「美術は、芸術は生きていく上で不必要だ、無駄だ」みたいな話を聞くことがある。
個人的にそれに関してはそりゃそうだろうと思っている。
究極的な言い方をすればこの世の娯楽全般は生きていく上で必要ないものである。生きていくのに必要なのは本でもビックリマンでもオイルでもなく最低限の衣食住だけである。
にもかかわらず現代ではその不必要とされる娯楽が溢れかえっている。それらの「無駄」には需要があるからだ。
どれだけ、最低限の衣食住に色を付けていけるのかが、それぞれの人生の豊かさにつながるように思う。
そう、すべての「無駄」には意味があるのだ。つまり、この家計簿1号も俺の人生においても大きな意味を持つモノなのではないか。
このタイミングで俺の前に姿を現した事には何か意味があるはずだ。
家計簿1号の最終記入ページを開いてみることにした。たしか2024年の1月1日からつけ始めたはずだ。


ほぼ空白の2月。

2024年2月6日の欄に、走り書きで 「¥1248」 とだけ書いてあった。汚い字。
前言撤回。
俺は、この無駄な家計簿に関しては捨てることにした。