それはよく晴れたいつもの休憩スペースでのことだった。
机にカップやらサンドイッチの袋やらが三つ無造作に置かれている。おれは正面に座るふたりの先輩と、なんということもない話をだらだらと続けていた。最近ハマっているスマホゲームだとか、退勤後にどっか食べいくか〜とかそういう時間を埋めるだけの会話だ。
誰が言い出したのかはもう覚えていない。ただ話題は自然と「共感覚」の話になっていた。文字に色が見える・音に形を感じる等のそういうどこか神秘めいた知覚の話だ。
「まぁ、そういうのあるよな」
「数字、全部、色はついてますよね」
全員が顔を見合わせた。面白そうだった。手始めに、それぞれの「色」を聞いてみようじゃないか、とおれが提案した。まるで小学生の頃に流行った性格診断ゲームみたいだ。
「じゃあ、ゼロから行きますか」
おれは人差し指を立てた。
「ゼロは……透明」「白かな」「無色的な」
「1は?」
「赤」「赤」「赤でしょ」
ここまでは、誰もが同じだった。数字と色の結びつきがこれほどまでに一致するのかと少し感動さえした。
2は青。3は黄色。ここでも意見は割れない。芝生の上を風が吹き抜けるような、爽快な気分だった。
4〜7は少し意見が分かれたがまぁ飲み込める程度の差だった。
そして、問題の8のターンがやってきた。
おれは何の気なしに頭に浮かんだままを口にした。
「8は、山吹色、かな。ちょっとオレンジがかった鮮やかな黄色」
それは、おれの中で疑いようのない真実だった。
「俺は、もう少し黄色が強いかな。レモンイエロー」
先輩のひとりも、自分の感覚を肯定するように言った。
その時だった。
もう片方の先輩はまるで1+1が2であるかのように当然の事実として涼しい顔で言い放ったのだ。
「8は紫でしょ」
一瞬世界から音が消えた。
休憩スペースの冷蔵庫の低いうなり音だけが、やけに大きく鼓膜を震わせる。
ありえない。そんなはずは、絶対にない。8はあの燦々と降り注ぐ太陽の光をそのまま閉じ込めたような、山吹色だ。そして紫は6だ。6という、あの、どこか陰りを含んだ不安定な曲線の数字が紫の、高貴でそれでいてどこか怪しげな色を纏うのは、おれにとっては宇宙の真理と同じくらい自明なことだった。
「……は?」
おれは間抜けな声を漏らした。
「紫っすか? 8が? いやいや、山吹色ですよ。それでなくてもオレンジとか黄色とか……」
「俺からすると、8は完全に紫。ラベンダーじゃなくてもっと深い深い紫……」
先輩は自分の感覚を疑う様子が微塵もない。その瞳は真っ直ぐに僕たちを見つめている。その確信に満ちた静けさがかえって薄気味悪かった。こいつはさっきまで学園アイドルマスターの話をしていたのだ。
休憩スペースの空気が一変した。さっきまでのただの暇つぶしのゲームは今やお互いの認識の根幹を揺るがす戦いの場と化していた。
「待って待って。じゃあ整理しよう」
黄色派の先輩が手のひらで空気を制した。
「0から7まではまあ多少の色の濃淡はあれだいたい同じ系統だったわけだ。それが8に来ていきなり『黄色・オレンジ』派と『紫』派に真っ二つに割れた」
彼の言葉は、事態の異常性をこれ以上なく明確にした。それはただの好みの違いなんかじゃない。現実の見え方そのものが私たちとの間では、決定的に異なっているというのか。
「先輩、もしかして、昔、数字のポスターか何かで8が紫に塗られてたんじゃないですか?」
おれは何とか科学的な、いや、常識的な落としどころを探そうとした。
「いいや。物心ついた時から8は紫。8はあの上下の輪が完全に閉じているだろう? あの、閉塞感というか完結している感じが紫の持つ内省的で複雑な色味と共鳴するのだ」
彼はまるで詩を朗読するかのように言った。
「違う! 8のあの途切れない線、永遠に続く感じが太陽の尽きないエネルギーを表してるんですよ! 山吹色ですよ!」
おれは声を荒らげていた。こんなに必死に自分の感覚を肯定しなければならないことが悲しかった。
その騒ぎを聞きつけて他の社員も何が起こったのかと集まってくる。
「どうしたの?」
「なんか揉めてるぞ」
「8の色? なにそれ」
野次馬たちにも手始めに「8は何色?」と聞いてみる。
「黄色」「オレンジ」
誰もがおれらの感覚に近い色を答えた。
「ほら! みんな黄色系じゃないですか!」
おれは、声を大きくして訴えた。
だが紫派の先輩はその光景をまるで違う星の言語を聞くかのように静かに見つめているだけだった。
「みんな、そう言うのか。不思議だ。でも俺にはやっぱり紫なのだ」
彼は、そう言って、冷めてしまったお茶を一口啜った。そして休憩の終わりのアラームを止めてさっさと出ていってしまった。その横顔は絶対的な確信に満ちていてだからこそとてつもなく異質だった。
◇
おれはと言うと、あれから取り憑かれたように「8の色は?」と社員に聞き「紫がどれほどありえないか」を証明する為に奔走していた。結果、やはりオレンジや黄色が多かった。
しかし先輩だけはその結果を見ても「でも俺は紫だと思う」と、ただ一人凪いだ海のような静けさで自らの真実を守り続けていた。
季節はいつしか8月の終わりに差し掛かっていた。
夕暮れ時、窓の外を見ると空は昼間の青さを手放し、夜の闇に手渡す前の曖昧な色に染まっている。
ビルの隙間から覗く西の空は奇妙な紫色をしていた。そういえば昔、誰かに教えてもらった気がする。夏の終わりの夕空は空気中の水蒸気のせいで紫色に見えることがあるのだと。
おれはしばらくその空を見上げる。窓の外の紫色は、刻一刻と濃さを増している。街灯がぽつりぽつりと灯り始めそのオレンジ色の光が紫色の空と不思議なコントラストを描き出す。
山吹色と、紫色。
おれたちは結局最後まで分かり合えなかった。でも、もしかするとそれが当たり前なのかもしれない。同じものを見ているようで誰ひとりとして同じ世界を見てはいない。それぞれの目に映る世界の色は、それぞれの真実なのだ。
ふとカレンダーを見ると、今日は8月31日。明日からは9月だ。子供の頃はこの日が来るたびに夏の終わりを寂しく思ったものだった。夏休みの宿題に追われ、カレンダーを見つめてはため息をついたあの感覚。今はもう宿題に追われることもないけれどそれでも8月が終わるという事実は、胸の奥のどこかをほんの少しだけ切なくさせる。
空を見上げると、紫色はもうほとんど黒に近くなっている。夜が来る。夏が終わる。
先輩の8は、この8月の空だったのかもしれない─────
いやどう考えても山吹色だボケ
