カフェでアルバイトしてた時の話
ある若いカップル客が店に来た
女はアイスラテ、男はクールに「エスプレッソで」と注文
小さな個人経営店で、その時は店長とふたりでゲームをして暇を潰していたくらい閑散としておりそのカップル以外に客はいなかった
ドリンクを持っていくと男はまじまじとエスプレッソを見つめ、女は「このサイズで大丈夫?」みたいな事を言っていた。男はというと「これがいいんだよこれが笑」などと顔を引き攣らせながら返していた
おれはカウンターに頬杖をつき、その様子を見ながら初めてエスプレッソを飲んだ時のことを思い出す
当時「エスプレッソ」と聞いて思い浮かべるのはマウントレーニアくらいだったので、初めて本物を見た時は思ってたんと違うサイズ感にびっくりした
しかし何より強烈だったのはその味だ
「ここら辺では1番いい豆使ってるからねぇ、上品な味だよ」などと店長から出されたエスプレッソをクイッと呷った俺の最初の感想は「ど、毒!!」であった。
次の感想も「後味に殺される!」だった気がする。顔も歪みに歪みドッスンみたいになっていたに違いない。
そう、エスプレッソは強烈に苦いのだ。
高校卒業直後のガキンチョが珈琲豆の濃縮抽出液のオシャ味を判別できるはずもなく、人生初エスプレの思い出は軽くトラウマになっていた
しかもあとで聞いた話によるとエスプレッソは砂糖をどっさり入れて、溶けきらないくらいに混ぜて飲むのが一般的だという。日本人はブラックコーヒー派が多いのであまり浸透していないらしいが。
つい最近、サイゼリヤのドリンクバーにエスプレッソがあったので試しに飲んでみたら先輩2人に
「え〜!エスプレッソに砂糖〜!?」
「変わってるね〜〜〜」
と言われたことがある。なるほど日本人はブラック派が多いらしい
例のカップル男もやはり一緒に出した砂糖を無視してストレートでいってしまい、ぷるぷる震えてお冷のおかわりを4,5回していた。ホール担当だったのでよく覚えている。常連のお相撲さんと並んで彼が連続最高記録だ
かわいそうに、彼女の前で文字通り苦い思い出を作ってしまったかな。
当時のおれも同じくコーヒー=ブラックが普通みたいな認識だったので、砂糖が標準装備のコーヒーがあるのを知ってだいぶ興味を持った。
そこでおれは貯めたバイト代でセミオートのエスプレッソマシンを買って自室でひとり、美味しく抽出する特訓を始める。上京直後の、おひとりさま帝国誕生の第一歩である。(2017〜現在)
おかげさまでこの帝国は今でも孤独に繁栄を続け、フルオートのエスプレッソマシンを使い倒すほどにまで成長した。孤独の王は今日も寂しくラテ作りよ
それにしても、例のカップル男くんのような経験はみんなあるよね
特に我々男子は「女の子の前でカッコ悪い姿を見せたくない!」という心理が働き「知ったかムーヴ」をカマしてしまう事が多々ある。つか日常茶飯事
この前カラオケで女子から「LE SSERAFIM(ルセラフィム)知ってる?」と聞かれ思いっきり見栄を張って
「あ〜ハイハイ。あの、うた…歌ってる人たちね?」「多分見ればわかる(わからない)」という態度をとってしまった。男子とはそういうものだ
知らないものに関しては潔く「知らない」と言える勇気がほしい
でも慎重になりすぎて
「え〜と、女の?」「あ〜ダンスがかっこいい?」「韓国系?」とカスのアキネイターを始めなかったことに関しては褒めて頂きたい
「たぶんそう、部分的にそう」などと返されてしまったら詰んでしまう
我々男子は女子の前で無知が露呈してしまう事が恐いのだ。「え〜そんなことも知らないの〜wキャハハw」に恐れ慄いている方の性別こと、男
つい最近家族でイタリアン行った時のメニューなんかもマジで読めなくて「日本語のものはありますか?」って聞こうかと思ったし、あれがもしデートシチュだったらと思うと末恐ろしい
「無知な人」☞「無能なヤツ」というレッテルを貼られることだけは避けなくてはならない。高級イタリアンでの立ち居振る舞いはスマートに
「いやいやたかがイタリアンでしょ笑」と思ってるそこのオマエ、考えて見ろ
急に
「アンティパスト、プリモ・ピオット、コントルノをお選びください」
などと言われても「日本語でおk」としか返せないし、テキトーに「じゃあそれで」と流そうもんなら
「いえ、ですからアンティパストと…」
「だからそのアンティパストで!😡」
「お客さま、“アンティパスト”とは“前菜”の事です。前菜のメニューからお選びください」
と冷静なカウンターにより赤っ恥のコキッ恥をかかされてしまう
周囲のお客さま方もお口元にナプキンをあてお上品にくっくっと笑うに違いない。しっかりとナイフとフォークを外側から使いやがって
おれはなんとか誤魔化すために
「おや、キミは本場のイタリア発音に慣れていないらしい。ボクは“アンティパスト”ではなく“アグノロッティ・パスタ”と言ったんだ。聞き取れなかったかな?」
「し、失礼いたしました……」
その隙を突いて一気に捲したてる
「さて、注文の続きだが、アンティパストにスッパムーチョ、プリモ・ピオットはズンドコベロンチョで、セコンドにはゴギガ・ガガギゴがいいかな」
「コントルノはミトコンドリア、あとガガスバンダスも忘れずに。マルマルモリモリにはアベサダヲをつけてくれ、そしてドルチェにはエスプレッソを」
これで形勢逆転だ。店員は「ひ、ひぃっ」と声を漏らしその場にへたり込む。周りの客どももその様子を見て「こやつ、只者ではない」と思い始め口元からナプキンをおろし目を背ける
「もういい。君、聞き取れたものだけを持ってきなさい」
ボクの、勝ちだ
そしてボクは運ばれてくるエスプレッソと阿部サダヲを上品に戴くのだ。もちろんストレートではなく、砂糖はどっさりで
しかし次の瞬間そこに現れる先輩2人
「え〜!阿部サダヲに砂糖〜!?」
「変わってるね〜〜〜」
しまった!こいつはストレートが正しかったか!
隙を見せたが最後、戦況は大きく傾く
しかもコチラは独り。孤軍奮闘、四面楚歌。
徒党を組まれては分が悪い。背水の陣、絶体絶命。
すかさずおれは御手洗に行くふりをしてその場から逃走。敵前逃亡だ
バレないように入口へ向かい、店の外へ飛び出した
おれは走る。いくつもの風景が己の背後に風となって流れていく。ふと後ろを見ると先程まで店内にいた人たちがすごい形相で追いかけてきているではないか!「無銭飲食!」「無銭飲食!」
全員口元にナプキンを巻き、ナイフとフォークを携え、眼は血走っている。その邪教徒のような装いは先程までの上品な佇まいとは掛け離れていた
それらの暴徒を引き連れ先頭を走るのは、他でもない砂糖まみれの阿部サダヲだ。彼もまた怒りに顔を歪ませドッスンのように歯を剥き出しにしている
冗談じゃない。どうしてこうなった。
そもそもここは日本なんだから分かりにくいカタカナ表記で惑わせてくるのがいけないんだ!
邪教徒の群れはすぐ後ろまで迫ってきている。「責任転嫁!」「責任転嫁!」
もう体力の限界だ。足がもつれ始めたその時を見計らったのか、砂糖まみれの阿部サダヲがいきなり飛びかかってきた!おれは大きく態勢を崩し、2人ともそのまま地面を転がり、ついには奈落へと落ちていく
顔が歪みケタケタと笑う阿部サダヲと抱き合う形で虚空へと放り出される
「いち・にの・さん・しで ゴマ塩さん♪」と歌いながら落ちていく彼の瞳に光は感じられず、黒目しか無かった
「ダバデュア・ダバジャバ・デュア……」
意識が…遠のいていく───────
気がつくとそこはカラオケボックスだった。しかしどこか…何か変だ。デンモクに表示される「曲選択機」「日本歌謡曲」「洋楽」
そして目の前にはあの女子が。
「ねぇ、宮脇咲良の所属している韓国の五人組女性歌唱団しってる?」
急な寒気がおれを襲う
「……それは、ルセラフィムのことか」
恐る恐る聞いてみると彼女は動きを止め
「……………は?」と光のない瞳をこちらに向けてきた
それはぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべる阿部サダヲだった
思い切りカラオケボックスのドアを蹴破り、外へ出る。すると急に鋭い光が差し込み思わず目を瞑る。
目をあけるとそこはあのイタリアンレストランだった。
「お客さま、前菜はいかがなさいましょうか。お勧めは“薄切り生肉の香味油がけ”でございます」
「汁物には“赤茄子と人参の具沢山汁”をご用意しております。ご一緒に肉料理は如何ですか」
…ダメだ。望んでいたはずなのに
全て日本語表記であるはずなのに強烈な違和感が全身を包む
周囲には上品に伊太利亜料理を口に運ぶ阿部サダヲたちがこちらに目を向けていた
『伊太利亜料理店』『料理人の気まぐれ野菜盛り』『本日の味付け小麦麺』『会計場』『庭席』『お品書き』『便所』……
耐えられない…
「おれが、悪かった……無知である事を…認める…」
涙を流しそう呟いた途端、急に世界がガコンと大きく傾き始める
そうだ、俺はあの時の男なのだ
バイト時代、カフェに入店してきた若いカップル。
彼女の前でスマートな男を演じ、名前の響きと勢いで注文したエスプレッソ。
初めて味わった強烈な苦味に悶えながら男は素直に叫ぶ。
「ど、毒!!!!!!」
涙に滲む手元の『お品書き』は『メニュー』へ、『赤茄子と人参の具沢山汁』は『ミネストローネ』へと姿を変えてゆく。阿部サダヲの気もいつの間にか消滅していた
やがて運ばれてきたカルパッチョを食べながらおれは涙を流していた。この世界は知らないことで満ち溢れている。それは見栄を張るのも馬鹿馬鹿しいほどに
「何も知らない、何もわからない。素晴らしいことじゃないか」
これこそ、まさにソクラテスが伝えたかった『無知の知』ではないのか。知らないことを知っている。不知の自覚。
料理はどんどん運ばれてくる
“フィレンツェ風トリッパ”
“甘ダイのクロカンテ ヴェルモットソース”
“黒キャベツのインズィミーノ”
“ポルチーニ茸のタリアテッレ”
“アラビアータ風フェデリーニ”
……
気づけば外へと飛び出していた。そして月に吼える。
「美味しい……!知らない事が……こんなに美味しい!!」
疾風の如く南青山を走り抜ける
あまりの疾さに衣服は粉々に砕け散るが構わない
月明かりが裸の心を照らし、きらきら輝かせていた
駆け抜ける街の雑踏を置き去りに、空を見上げる
あぁ!
この星たちがボクの穢れを剥がし、爽やかなミントの夜風で浄化してゆく!